さて、音二郎一座の関東初見参は、明治二十三年八月横浜蔦座公演『明治二十三年国事犯顛末』と『松田道之名誉裁判』の二本立て。もちろん『オッペケペ』も演じて十五日間満員。『国民新聞』『東京日々』『東京朝日』などが、「書生芝居(註3)・滑稽演劇家川上音二郎大人気」──と、盛況ぶりを報じている。そこを振出しに九月は東京・芝の開盛座・「書生芝居、太鼓を叩きまわる、一行凡そ三十二、三人」(「国民新聞」九月十二日)「芝開盛座、再び停止を喰わば荒事の活劇を覚悟」(同九月二十三日)──と、新聞が過激な記事を掲載。少し注釈を加えれば、前の記事は、公演に際してデモンストレーションとして行った仮装(コス・プレ)によるパレードを報じたもの。当時は相撲巡業の他は《触(ふ)れ太鼓》による到来を告げる公演がなかったため、芝の住民は時ならぬ太鼓の音に、イッセイに大通りに飛び出したらしい。「川上音二郎一座」や「開盛座」などの幟旗(のぼりばた)を押し立て、人力車三十数台に壮士風の一団を連ね、役者名の小旗のはためく中、音二郎は白の毛皮を座席に敷いて、紺のカスリに鳥打帽のイデタチで、自信満々の様子であったという。後の記事は、警視庁の脚本検閲でひともめ有った一件を報じたもの。たとえ《芸能》に名を借りても、政治的主張への官憲の追求はキビしかったのである。
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