ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。
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