日本現代舞踊の起源-村上裕徳 <N0.11>
 話を芸者芝居に戻せば、演劇改良会の運動の一環として、渋沢栄一・大倉喜八郎・福地桜痴などと地元有力者の協力で、貞奴の住む浜田家に近い蠣殻町に有楽館という演芸場が新設されたのが明治二十二年六月。その落成式に慈善芝居が企画され、女形の廃止を主張する会の趣旨に従い芸者達に出演が求められた。貞奴十八才の時である。演目は『曽我討入(そがうちいり)』貞奴は五郎役であった。
 この公演は恒例となり歳末公演が定着し、貞奴は芸者芝居に熱中する。『菊畑』の鬼一法眼、『寿曽我対面』の五郎と敵(かたき)役の工藤祐経、『八幡太郎伝授鼓』の源義家、『川連館(かわつらやかた)』(『義経千本桜』四段目)の狐忠信、『廓文章』の藤屋伊左衛門など、男役の、しかも主役ばかりを貞奴が演じている。五代目菊五郎に教えを受けたのは『菊畑』であるらしい。明治四十四年二月号の『演芸画報』の貞奴の回想によれば、「立役が好きで、いつも他人(ひと)さんが厭がる立役は背負い込んで納っていたものです」──という。どうやら当時は男装が、羞恥につながるかなりエロティックなニュアンスが有った事を感じさせる発言である。同時代の大女優サラ・ベルナールの男装癖などと比較しても、大変に興味ぶかい。「千円位の切符は引受けて、自腹を切って芝居に出て嬉しがって居たものです」──という発言もあり、かなりの入れ込みようが窺える。千円のリスクは当時の中級官吏の約三年分の収入に相当するが、その金額も貞奴には痛手にならない額であったようだ。有楽館は明治二十七年に経営難で閉館しているから、五年間に六公演の芸者衆による≪女歌舞伎≫が演じられていた事になる。確証は無いが、貞奴と同じ芳町芸者の米八が千歳米坡(ちとせよねは)として、二十四年に最初の男女混合劇を企てた≪済美館≫に出演している事から、後に女役者になった米坡が、この芸者芝居に参加している可能性は充分に考えられる。≪済美館≫結成にあたり脚本家の依田学海(よだがっかい)が、舞台経験の無いズブの素人を≪女優≫に仕立てあげたとは考えられないのである。
 また芸者芝居の時代は、貞奴が歌舞伎役者を浮名を流した頃と重なっている。五代目中村歌右衛門の回想に、「あの女は我まま者で、気に入らぬことがあると。どんな名士のお座敷でもサッサと引上げて帰りました。あの女は私と遊ぶ時、いざ勘定となると算盤を取寄せて自分ではじき、必ず割勘にしておりました。人におごって貰いたくないのです」──とあり、ある種の金銭に細かい律儀さに閉口している口吻(くちぶり)だが、俗に言う≪役者買い≫の、芸者の側が役者に貢ぐという間柄でなかった事が読みとれる。歌右衛門が福助時代には貞奴との結婚話もあったらしい。六代目梅幸とも親密だったから、貞奴が仮にどちらかと所帯を持っていたら女優貞奴は誕生しないが、百年以上を経た今日では、歌舞伎界の大名跡(ビッグネーム)のかなりの人々が貞奴の末裔(ちすじ)に成っていたであろう。
 それはさておき、戦後に帝劇で秦豊吉(はたとよきち)(註1)が上演した『マダム貞奴』(註2)では待合で歌右衛門と逢引していた貞奴が、音二郎の部屋に間違って入ったのが初対面という筋書きらしい。いかにも有りそうな話だが、これはフィクション。『旅芸人始末書』では大倉邸の一件をナレソメとしているが、データーが不充分。しかも、どの研究書に当っても、この一件が何年なのかがわからない。『女優貞奴』(山口玲子著)で幾つかの証言をもとに、関東へ進出して来た音二郎一座をタマタマ見た貞奴が、音二郎に興味を持ち、宴席でも顔を合わせるようになり、そのうち貞奴の方が音二郎に夢中になったという論旨だが、事実関係がかなりアイマイで想像の域を出ない。音二郎と貞奴の回想の齟齬(そご)のみならず、数種の貞奴自身の証言にも食い違いや不明瞭な点が多いためだが、その理由が、気恥しさやモノ忘れといった通俗な事に起因するのでなく、何か無理に帳尻を合わせている感じが証言の中にするのである。それが山口著にも波及し、二人の初対面あるいはその後のイキサツについて歯切れの悪さを感じさせる。憶測を最小限度に押さえなければならない評伝のツライところである。

 ただし同著には、川上一座の筆頭幹部であった藤沢浅二郎の、「音二郎が芸者遊びの妙味をたのしみながらも、貞と契りを交わしたのは、中村座の三の替りのあと、宇都宮の大川座へ巡業した時」──という証言があり、少くとも、この時期以前から二人が親しかった事がわかる。時期が確定できる最も古い証言が、この記述なのである。中村座公演が二十四年十月まで二の替り、三の替りを立て続けに上演しているから、現代風に言うと二人の初エッチは二十四年の暮れあたりと考えてよかろう。大倉邸に三日間立籠(たてもこ)る一件は、それ以降と考えるのが、まず順当な推測と思われる(註3)。なぜこうもアリバイ崩しめいた瑣末事(さまつじ)にこだわるかと言えば、同じ頃に貞奴は、五年ぶり東京支店に転勤となった桃介と会っている。愛憎交々(こもごも)の桃介への感情と、音二郎に傾いていく貞奴の心理を解析するのは残された資料のみでは不充分だが、資料を自分なりに秩序だて仮説を立てる事は可能である。そうしないと、何が貞奴をひきつけたかという音二郎の魅力とともに、音二郎が選んだ貞奴とう気丈な女の決意は希薄になると考えるからなのだ。貞奴が《野合(やごう)》でないと強調し抗弁するように──という事は一般的に野合と見られた事を意味するが、捨鉢な済崩(なしくずし)で音二郎と一緒になったわけではないのである。

 貞奴は「満二十歳になったある日」、御座敷で桃介の名前を小耳にはさむ。桃介は二十二年に米国から帰国し、結婚後に北海道に赴任。二十四年一月に長男が生まれ、東京へ転勤になっていた。貞奴は七月十八日生まれのため「満二十歳」なら二十四年七月以降にあたる。「そんな折」(山口著の表記に従う。二十四年七月以降と考えられる)上野池之端で催された母衣引(ほろびき)の競技会で、貞奴の騎乗する馬が引く布製の母衣(ほろ)が池畔の柳にからまり、煽(あお)りをくらって貞奴は落馬してしまう。幸い怪我は無く脳震盪(のうしんとう)だけであったが、そこに居合わせたのが桃介であったらしい。『女優貞奴』ではこの場面のみ出典が明記されず、しかも、「思いがけない再会に、貞は痛みを忘れた。目を閉じた貞の耳に、近くのテントまで静かに運ぶように指図する桃介の声がきこえ、暫く休むと自力で歩けた」──という風に内的心理まで描かれる小説風の表現になっている。山口の評伝としての認識に疑問を感じるし、「初恋の桃介は、貞が当面する結婚問題の相談相手になりかわった」──という結論にも、客観性が感じられず疑問が残るが、桃介との邂逅(かいこう)は事実であるらしい。
 

 註1──明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。

註2──越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3──「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。

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